安達正興のハード@コラム
Masaoki Adachi/安達正興


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吉村長慶 (2)長慶橋と下長慶橋
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〈 2010年 2月 26日 金曜日 )


●長慶橋(大正12〜昭和31)
記念にもとの親柱が土中深く埋めてある。

佐保川は奈良女子大学の北ウラ側でクビレ、東へ道路沿いにながれてゆく。ちょうどそのクビレた所の川端町から法蓮町へ南北に架かるのが長慶橋、隣に川端町から船橋へ佐保川沿いに東西に架かっている大きい方が天平橋である。しかし大正時代には道路が川の南側にそっていたので現在の天平橋や女子大北西の角にある佐保橋はまだなく、旧奈良まちから川を越えて法蓮佐保山に行こうとすれば、長慶さんが寄進した長慶橋か下長慶橋のどちらかの橋を通ることになる。オリジナルの「長慶橋」は長さ六。、幅四。、筆者が自転車に乗り始めた頃、この石橋を渡るとき、横並べの石板の継ぎ目ガタガタと振動する。それがまた面白く行ったり来たりしたものです。
 佐保川は過去何度も洪水をおこし、木製の橋は流されてそのたびに架け代えられてきた歴史がある。最も被害甚大であった洪水は、宝暦三年(1735)の梅雨時の大雨によって起こった。正倉院に向かって左側の大仏池(人工のため池)が決壊し、吉城川、佐保川から濁流が溢れ出て多くの木橋が流された。第二室戸台風は水害にとどまらず、瓦が飛んだり春日参道の灯籠は将棋倒しのように数百基も倒れ、春日の大杉が数本折れるほどの被害をもたらした。だが長慶橋はビクともしなかった。長慶さんが寄進した頑強な石橋は、しかし手押し車の時代に造られたので、自動車が普及してくると幅が足らず、市の道路計画により昭和31年に現在の変哲もない橋に架け代えられたのである。
 記念碑として「長慶橋」と刻まれたもとの親柱(四隅に立つ石柱)のひとつが橋の横に立てられている。深く土中に埋められているので寸詰まりだが、掘り出せば高さ180の堂々たる石柱である。

●下長慶橋(大正12〜昭和8)
下長慶橋の親柱(個人蔵)と現在の姿。ひらがなで「しもちょうけいばし」と銘版がある。

船橋町北詰め、現在の長慶橋から下流の方へ約六百。離れたところに石橋があった。実はこのオリジナルの下長慶橋を覚えている古老は殆ど生きていらっしゃらない。ムダのないシンプルな石組みで構築した質実剛健なこのツワモノは、粗目の花崗岩を用い決して美麗な石材ではない。長慶さんは機能と用途に適切な石を選び、なにごとにも余分な贅を尽くすことを嫌った。オリジナルの橋は、現在ある天平風コンクリートの「下長慶橋」よりかなり西に寄ったところに架けられていた。というのは、現在の船橋通りは直線的に真っすぐ北へ進み、橋をわたってから二股に分かれているが、大正時代の地図を見ると澤井病院のあたりからやや左に折れて、佐保小学校のまえに真っすぐ道路がのびており、下長慶橋はその途上にあった。このことは橋の北詰めに代々お住まいの建築家・岩崎弘氏からから興味深い顛末をお聞きした。原因は市のズサンな佐保川改修工事にあったのだ。

●下長慶橋流される
「元の石橋は現在のT下長慶橋Uより七〜八。西にありました。船橋通りは今より西寄りにあったのです。橋桁の跡が堤に確認できますよ。昭和のはじめ頃、新在家から船橋にかけて蛇行していた佐保川の川床をあげ、川幅を広くし、流れを直行するように整備したのですが、川幅を拡張したため長慶橋は長さが足らなくなり一端を鉄製の桁で継ぎ足して、そんな形になっていました。だから片端の橋脚跡が護岸の石垣に残っていますよ。川床が上げられた分だけ橋脚が短くなったうえに継ぎ足した。そのため構造的に弱くなってしまったのでしょう、昭和のはじめ頃。洪水で下長慶橋が崩れ落ち、濁流とともに流されてしまいました」

 では下長慶橋が何時の洪水で流されたのか、昭和初期ということで9年の第一室戸台風、あるいは十三年の阪神大水害あたりに見当をつけ、市の広報課に調べていただいたところ、見当は外れたが、宿直日誌に
 「下長慶橋、昭和八四月二十六日未明豪雨により橋梁が流される」
 とあることが判明。ちなみにそのころ大正12年の添上群佐保村は戸数305戸、人口1616人である。(奈良市史より)昭和8年の集中豪雨でながされたあと、新しいコンクリート、アスファルト敷きの「下長慶橋」が現在地に建てられ、その後昭和31年に改修されて現在の橋に落ち着いたのである。流された石材の大部分は長慶寺境内に運ばれ一部再現され、残りは保管して石碑等に再利用されたようだが、「下長慶橋」と刻まれた親柱がひとつ個人の所有物として残されている。写真のように欄干を通す穴が頭の位置にあり、当時は奈良市内最大の石橋であった。はみ出しそうに大きな文字、この堂々と遠慮しない自己主張は長慶さんにしかできない持ち味といえる。

 近鉄奈良駅が地下に潜った昭和四十四年までは終点奈良駅のひとつ手前に「近鉄油阪駅」があった。この駅は国鉄線の上を高架線でまたいですぐの船橋側にあり、駅ホームも高架線上にあったので改札口からホームへは階段を上り下りしなければならない。早朝、この油阪駅からゾロゾロ出てきた電車通いの高校生と、歩き通いの高校生は一団となって船橋商店街をのぼっていった。奈良商工(四十四年移転し跡地は現奈良県立大)の生徒は坂を上がりきったところで左に折れて別れる。残ったものはさらに「下長慶橋」をぞろぞろ渡って育英学園へ、奈良高校(39年移転、跡地に春日野荘)へと消えてゆき、最後のむれ は一条高校生である。つまり建て替えられといえ「下長慶橋」を往復した高校生は日に2000人以上いたわけだ。





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