安達正興のハード@コラム
Masaoki Adachi/安達正興


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吉村長慶(1)小年譜
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〈 2010年 2月 25日 木曜日 )


しばらくぶりに吉村長慶とGoogleで検索すると、いくつも出るようになりました。興味のある人が増えつつあるようでご同慶。砕けた文で、長慶さんの代表的な石造物や生い立ちと生涯などを、10回くらいコラムにアップしていこうとおもいます。

明治37年、長慶42歳(かぞえ)の肖像

幕末に生まれ明治大正昭和を豪快に生きた奈良まちの吉村長慶、三尺将軍と呼んで愛され、自らは宇宙菴と名乗り奇異な石造物で知られる長慶の全貌を連載開始。

まず吉村長慶について次の基本を押さえておいてください。今後の長慶コラムで役に立ちます。
○文久3年(1863)12月21日(陽暦では元治元年.1864 1月29日)奈良薬師堂町の質
商吉村家に長男として生まれる。幼名は登。父長七は廃寺になった眉間寺の寺裁(寺侍)から文久2年、吉村家の二女-志奈子の聟に入家した。
○ 明治12年数え17 才の時、慶応義塾に入学、間もなく退学して陽明学を学び、大隈重信ほかの立憲改進党の志と交わり、党の創設に加わる。明治14年帰郷。
○ 明治19年、結婚し家業の質商を営む。
○ 明治27年、日清戦争のバブル景気で長慶は北浜の相場で膨大な利益を得る。
○ 明治29年、数え34歳のとき分家して西ノ吉村家を興す。同年日清戦後の大陸へ渡り、上海を起点に中国各地を単独で旅行、中国の政治経済社会地誌、列強の清国蚕食ぶりをつぶさに見て、わが国がいかに列強に対処し、中国に進出すべきかなど詳細にルポし、のち明治38年に博文館発行の雑誌「東洋戦争実記」に「清国事情」を5回連載する。
○ 同29年、高野山奥の院に吉村家の墓所を設置。宇宙菴を名乗り、様々な石碑を造る。吉村家の菩提寺である奈良市鳴川町の徳融寺に最初の長慶生前墓を建てる。この頃から狛犬や千度石といった無難な石造物を社寺に寄進する。
○ 明治31年、奈良市政発足に伴い、三級市会議員に当選。(納税額で選挙人がきまる制限選挙)以後再選を重ねる。
○ 明治39年、「畿内遷都論」(首都を東京から山城大和に遷都)を著し桂太郎内閣に建議。建議書は国会公文書館に保存されている。10月初版、12月再版。
○ 明治37年数え42歳、「世界平和論」を英文付きで著し「世界平和會」を設立。如来道を感得し布教に努める決意をする。母の還暦を記念して石の「志奈子橋」を菩提川に建設。法蓮興福院墓所地に墳墓を築き、西吉村家の墓所を設ける。
○ 明治38年、欧米各国の宗教事情を視察、欧米の平和団体などに「世界平和會」賛同を呼びかける。このころ平和を記念する「諌鼓鶏」石灯を各地に奉納。高野山奥の院に二つ目の墓所を設け、武内宿禰碑(長慶の遠祖)。母志奈子の生前碑を建てる。
○ 明治44年京都嵯峨二尊院釈迦堂に「宇宙菴」を建て布教の拠点とする。二尊院に家墓を設置。
○ 大正2年、当選が危ぶまれていた二級市会議員に予想を覆しトップで当選。宗教活動が活発になり、石工・新谷信正を独り占めにして石の作品制作に拍車がかかる。
○ 大正5年、再び株取引に成功し財産を築く。大正5年、箕面竜安寺に自分に似せた「ヒゲの大黒」を寄進。この頃から大黒像を多くつくる。
○ 大正11年還暦、自身の寿像を連作する。大阪平野大念仏寺に「長慶入棺の座像」、榛原赤植の山中に大磨崖仏「厄除観世音」を彫る。佐保山に長慶寺造営を計画。
○ 大正12年、長慶寺完成。長慶は得度して僧籍に入り、道号を普門長慶と称す。佐保川に長慶橋と下長慶橋を建設。川の内堤に「三聖人合掌の浮き彫り」と「宇宙教典」を設置する。
○ 大正14年、母志奈子没、享年81歳。
○ 昭和3年、長慶寺に居を移す。「昭和の信仰」出版し、既成仏教、新興宗教、迷信陋習を攻撃する。教義や宗憲を刻文した宗教的な石碑と、等身大の自像を多く造る。
○ 昭和7年古希、等身古希の寿像を数点制作
○ 昭和10年高野山に立教碑、トンビの寿像、宇宙門、宇宙大神霊などを建てる。
○ 昭和14年喜寿、奈良市旧一条通に「長慶庵」建て隠棲する。戎大黒、夫婦大黒を数点つくり和を説く賛を記す。
昭和17年(1942)10月27日、長慶逝去、行年数え80歳(万78歳)。

●吉村長慶のいろいろな顔
一覧すると長慶にはいろいろな顔があることがわかる。相場師、金融業(金貸し)無類の読書家、演説がうまい政治家、宗教家、右寄りの平和論者、石の造形物プロモーター、そして独立自尊のマヴェリックは一級の知識人なのである。

吉村長慶は身長150たらずの小柄な体に似合わず、思い通りに豪快な生涯を貫いた畸豪の人、声が大きく大胆不敵、三尺将軍と呼ばれ親しまれていました。質商、つまり金融業でも十分資産家ですが、相場で連勝し莫大な利益を得ました。その財力をすべて石造物造りに使い果たしたといってよいほど。本人は資金とアイデアを出す制作監督の立場であって実際にノミで彫るのは石工の新谷信正・伝重郎という紀伊出身の人でした。故あって明治の初め二十歳前に仕事を求めて奈良にきた。

●石工・新谷信正・伝重郎
この石工については文献がないのですが、年は長慶より少し若く、庄屋の生まれなので読み書きができ、美しい隷書の書き手でした。それで墓石を彫るようになったと伝わっている。信正の筆かどうかは碑文の字癖でわかります。常々大福帳を話さなかった長慶さんも筆がたつが、小さな文字で字数の多い教義や長慶来歴の刻文は殆ど新谷信正の文字です。字数が少ない賛文などは長慶が石碑に墨守し、それを信正が忠実に彫っていった。

信正は絵心があり、よいデッサンを残しています。この石工の存在がなければ長慶さんの石造りがどこまで進んだか疑問。

よく石碑に長慶自刻と書いているの墨書きをしたことで彫ったわけではない。中には「長慶爪彫り」という大黒天石造があって、これなど形だけチョンと爪で引っ掻いただけだろう。ちょうどエライひとが用意されたスコップで土をかけるだけで、だれそれの植樹した梅に化けるのと同じ。50年以上も長慶の注文に応えてきた新谷信正なのに、また信正を信頼していた長慶であったが、二人の関係は意外に水臭く、注文主と職人の付き合い以上にはならなかった。長慶が亡くなった3年後に信正も他界する。





Pnorama Box制作委員会

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