安達正興のハード@コラム
Masaoki Adachi/安達正興


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奈良コボレ話(4)
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〈 2009年 7月 4日 土曜日 )


●県令・四条隆平の暴挙
もうすこしこの四条たかひら隆平奈良県令について書いておきたい。政府が任命する知事職は士族もいたが、初期の殆どは華族によって占められていた。先に五條県令であった四条隆平は、明治四年に奈良県令に任じられたとき三十歳、満で二八-九の若年である。ガキ大将が王様になったような案配で、怖いもの知らずにおもいつきを次々に命じた。なかには大阪に通じる大和川の河川敷道路工事など問題を後世に残したが一応成果をあげた施策もある。だが悪行の方が断然多い。

●鹿より牛を飼え
文明開化、平民教化の名の下に因習を覚ましてやると春日の神鹿を撃ち殺しシカ鍋をやらせたり、シカを有害獣に指定して柵を巡らした鹿園に閉じ込め、わずか三十八頭を残して絶滅寸前まで追いやった。餌を与えないので新芽を食いつぶし飢え死にしたのである。牛肉を好んで食した県令は神戸肉や松阪肉に並ぶ奈良肉を夢想したのか「鹿より牛を飼え」と、若草山に丹後牛や乳牛を放牧したこともある。若草山で放牧できる数は十頭がせいぜいのところに八十頭を放ったらどうなるか、「へいし斃死せり」である。これにも懲りない県令は茶山(奈良公園の一部)に綿羊百頭を飼うが食料不足でやはり「斃死」した。

●高野山へ芸者同伴
興福寺の壮大な四方の築地塀を「無用の長物」通行の邪魔になると取り壊した。すこしは記念に遺してもよかったのに、一部も残さず完璧に跡形もなく破壊し撤去したのである。先述した三重塔と五重塔の払い下げ然り、もうやりたい放題である。その様子は藤田祥光の自筆書「維新後の奈良」に実名入りでくわしく述べられている。そのため原文を引用するのは憚られるが、某尼さんに酒の酌をさせたこと、高野山へ芸者を連れて遊山し秘仏の扉を官命だと開けさせたこと、奈良国立博物館に展示していた大鐘を持ち出し、穴を穿って噴水にしたなど、余興ではすまない前代未聞の呆れた暴挙をくり返した。

●ご真影の起源
ところが、権威の後ろ盾である皇国思想には並々ならず、政府に明治天皇のご真影を願い出て許された。興福寺南大門跡に遥拝所(らいはいしょ)を建てご真影を奉じて、三条通りから興福寺を訪れる人々にまず礼拝させたのである。これがご真影の起源で、明治二十六年に教育勅語とセットで各学校や市町村役場に下賜(配布)されるようになった。現在、再興著しい興福寺はこの県令の厄災に触れたがらず、郷土史家も公的な県史では言いにくいだろう。

暴挙に加担した側近の権参事・津杖(猪太郎)正信が「不束」の件とかで謹慎を受けた際、四条県令は参事の復職を願う推薦の書を右大臣岩倉具視に上奏している。部下想いの面もあるのだろうか、頼りになる腹心を戻してほしい気持ちが読み取れ、文字は意外に細く几帳面である。

●奈良の三大災難
次に私的見解として奈良の三大災難とおまけを一つを挙げておく。 
▽ 平 しげもり重衡による  南都焼き討ち
▽ 筒井順慶による 多門城持ち去り
▽ 四条隆平による 興福寺廃寺

●破戒僧一桝による白毫寺の荒廃
この小災は寺の歴史から抹殺されたことなので少し補記する。真言律宗・白毫寺を遊里放蕩で食いつぶした一桝という和尚がいた。遊興費のため本尊の金箔を剥がして売りとばしたほか、国宝の閻魔王を放蕩悪友の多之吉に質入れ、買い手が見つかるまで隠しておいたところ多之吉の父、中田太郎氏が見つけて驚き信徒総代に報告した。総代は金を払って質受けし、取り戻したのだが、白毫寺は廃寺同然となり、しばらく村人が管理維持につとめた。なお一桝住職は「憑き病にかかり」間もなく死亡、ひと呼んで閻魔の仏罪という。ただし現在の奈良白毫寺は再興著しく、広い境内は四季の花が美しく一訪お勧めの寺である事を付け加えておく



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