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奈良コボレ話(3)
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〈 2009年 7月 1日 水曜日 )
●唐招提寺を切り売りした僧・照淳
幸い奈良県下では廃仏毀釈で誰も死なずに済んだ。時を経て、明治十年をまたず人間の方は元の鞘に納まり、さしものパニックも終焉したが、仏教建築、仏像、経典などに取り返しがつかない悲劇がおこった。薬師寺が吉祥天女の像を五円で質に入れていたのを、フェノロサと岡倉天心が教部省の依頼で宝物調査に来るというので慌てて質出し。「こんな物もあります」と陳列したところ、フェノロサが驚愕して絶賛したハナシがある。 薬師寺や唐招提寺は保存にガンバッタことになっているが、実際はそうでもない。ガンバッタ指導者がいたたからよかったものの、持ち出しては売り飛ばす僧侶が余りにも多かった。骨董趣味で知られた奈良町の絹谷幸次郎氏、実は五重塔競売に名乗り出た人でもあり「コボレ話(1)」で書いた名妓「歌鶴」で財産を築いた初代萬玉楼主人であるが、南城戸町の萬玉楼(明治六年、元輪院に移転、現存)にあるとき知り合いの住職が訪ねていくと、大きく立派な木魚がある。どなたの彫り物かとウラを見ると唐招提寺と記されていた。売ったのは環俗して妻帯、おなじ南城戸町で乾物青物商、つまり八百屋さんを開いていたもと唐招提寺教学部の住職矢野照淳である。ときの老管長が病に伏していたのをよいことに、数々の寺宝教典や築地の石まで売り飛ばした。 ●天平の写経を包み紙に 一方、広大な興福寺は空き家同然となり、境内をとりかこむ築地塀を取り壊し、校倉(あぜくら)造りの書庫を満たしていた膨大な仏教書籍を手当り次第に放り出しては焼き捨てた。学問所であった南都諸大寺の書籍はどこも似たような目に遭っているが、特に興福寺は酷い。 『焼き残った書籍は小僧たちが綴じ糸を切って反故紙にし、明治廿頃まで奈良漆の包み紙や宇治茶箱の張り紙はみなこの反故紙でありました。二十銭三十銭の茶盆が天平の写経で包まれて旅客に渡されたこともありましょう』 と唐招提寺大伽藍を護り抜いた清僧・北川智海管長の談話がのこっている。 また奈良の生き字引といわれた女子師範教授の水木要太郎氏の談話に 『四条隆平が奈良県令のとき、興福寺等が禍を被りました。権参事津杖猪太郎と云う者が今で言えば、至極ハイカラで県令を助けて破壊主義を実行したということであります』 とある。千体仏は束ねて薪にされ、金泥銀泥の経巻は燃やして灰の中から金銀を採取した振る舞いは末法もいいところだ。伽藍はまたたくまに壊されていった。明治四年一月、一条院は「上地」とされ県庁に没収、裁判所に転用された。明治五年教部省から興福寺「廃寺」の布達が出される。食堂は明治八年に取り壊され、跡地に奈良師範学校新校舎が建てられた。後、学芸大学となったここの講堂は、わたしが通っていた付属小学校と共用していたので卒業式や学芸会をおもいだす。大乗院・子院などが悉く破壊され、経典・仏像なども多くが二束三文で売却あるいは焼却された。金堂は大和が堺県に置かれていたとき、出張所として転用されたり、一時は留置場に使われたことさえある。 ●五重塔 を五十円で払い下げ 五重塔・三重塔も売りに出され、それぞれ五十円と十五円を仮定して払い下げられた。奈良坊目拙解に 『仏法破壊の劫風に建築彫刻の失われたるもの数を知らず。興福寺の五重塔をさへ一炬(きょ)に付せんとしたりことありといふ』 と書かれている。ライトアップされたおなじみの国宝五重塔は、いまでは考えられないことだが結局仮値の五十円で落札され、この者は焼却して九輪など金目の物を取ろうとしたが、あれが炎上したら近所に飛び火して全市が焼けると、元興寺の火災で類焼した苦い経験をもつ奈良まちの人々が猛反対した。四条県令はそれでも売却するつもりなので、興福寺の衆徒であった中御門胤隆(たねたか)が久邇宮(くじのみや)親王を動かして阻止すべく「焼却まかりならぬ、三日三夜で取り払うべし」との厳達を出してもらった。落札者はあまりにも急な命令でしかも解体費用に二百円かかるとわかって売買は破談になったのである。その落札者とはこのシリーズでおなじみの絹谷幸次郎氏であり、氏は破談が幸いして歴史の汚名から免れた。三重の塔は三十円で買いとる顧客が現れたが、その人は兄弟に説教されて辞退した。こうしてふたつの塔が難を逃れた。県令が売却決定したのを興福寺の僧侶や県庁幹部が阻止したわけではない。まったく運がよかったとしかいいようがない。 【このコボレ話シリーズでは正の最大公約数的「おらが郷土史」にあまりとりあげられない負の史実、をできるだけ実名入りで紹介します。】
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