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奈良のコボレ話(2)
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〈 2009年 6月 30日 火曜日 )
●明治前後の狂気、廃仏毀釈
明治維新とは国学者,神道家がオピニオン・リーダーとなって仏教に乗っ取られた地位を奪い返す神社側からの復讐、復古神道、祭政一致、神国日本の復活という狂気の一面がある。神官たちが神社寺を破壊したり、境内にある仏像や経巻を取り払ったりした。集団で比叡山延暦寺の守護神社・日吉山王社(ひえさんのうしゃ)へ押し掛け、抹香臭い仏具はすべて焼き払った事件、本州の地方の小さい寺々では勤王浪人が徒党を組んで押し入り、好き放題に破壊して廻った事件など枚挙にいとまがない。バーミャンの石仏をダイナマイトで破壊したタリバン原理主義者とかわらない狼藉ではないか。 平田篤胤の後継者・平田銕胤、玉松操をはじめ明治新政府に近い神道思想家の進言で慶応四年即ち明治元年、太政官布告が発布された。 「仏像を以て神体と致し候神社は以来相改め申すべく候こと」 とし、神社から仏像、仏具、梵鐘等を取り除くようにと告げた。いわゆる「神仏分離令」の号令で、過激派を巻き込んだ「廃仏毀釈」運動のはじまりである。 ●僧侶が神官に転職 仏寺の配下に鬱屈していた神官たちは「官幣神社」に格上げされて小躍りしてよろこび、坊さんたちは慌てふためき、髪をのばしてにわか神主に変身した。特に興福寺ではパニックを引き起こし、一乗院、大乗院の二門跡をはじめ院家の学侶ほか僧籍者のほぼ全員が布告から半月後に復飾(還俗)願いを提出し、そろって春日大社の「新神司」に任ぜられた。僧名を改め神官らしい名前に換えたというからお笑いだ。袈裟・数珠の僧体から狩衣直垂、烏帽子に笏を持つ神主になりすまし、お経からノリトへ……やはり恥じらいはあっただろうな。 攻守ところを変えた春日の禰宜さんたちが快く受け入れるわけもなく、新神司たちは机も居場所もない自宅待機の悲哀を味わった。それにしても見事な処世術である。だが中にはマイ・ウエイを行く者もいて、妙音院という僧が寺に留まり、「興福寺大伽藍の管理を手前にお許した賜りたい」と奈良府(県政の以前)に願い出てまた騒動になったという。この妙音院の行動は意図がどうであれ、什宝を破壊から護ることに繋がるのだから、今日から見れば彼のほうが正気だったのではないだろうか。 ●消えた大寺院 天理に永久寺、といってもいま生きている人で見た人は誰もいないのであるが、かつて平安時代に遡る豪壮な寺院があった。法隆寺に次ぐ寺格といえば想像がつくであろう。ここでも坊さんたち全員が傘下の隣にある石上神宮(いそのかみじんぐう)のにわか神主になったのである。永久寺廃寺の検分にきた役人の目の前で、ひとりの坊主が恭順を示そうとして本尊の文殊菩薩をナタで頭から割ったという。さすがに呆れた役人がこの還俗した坊主を放逐した。あとは推して知るべし、村人が寺内の衣類調度、米塩金目の什器を持ち去り、価値も有り難みもなくなった仏具・仏像はだれも持ち去らず、困った奈良府が庄屋に預かり料払って庄屋の蔵に入れ置いた。あとは推して知るべし、明治八年に取り壊され、いま記念碑が一つ残るのみ。唯一残った鎮守の拝殿は石上神宮に移され、出雲建雄神社の拝殿(国宝)となった。また、庄屋中村家の蔵に保管された仏具.仏像はその後持ち主がいないため中村家の個人所有と成りそこから四方八方へ散ってゆき、多くが行くへ不明のままになっている。 「奈良名所図絵」より内山永久寺
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