安達正興のハード@コラム
Masaoki Adachi/安達正興


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留学中に片肺を潰したグリーグ
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〈 2007年 6月 1日 金曜日 〉


●バイオリン名手オーレブル
グリーグの少年時代、ベルゲン出身のバイオリニストであるオーレ・ブルはヨーロッパ、アメリカで活躍した北欧のパガニーニと呼ばれた天才的バイオリニストである。若者の憧れのまと、実際に会って話ができるなど考えられない有名な存在でした。このハンサムなオーレ・ブルの銅像がホテル・ノルゲの前、泉を配した緑の空間に立っている。その泉から上半身を乗り出して聞き惚れている腰から下が水になっ男の妖精と一対に成った銅像です。で、この短い街路公園をオーレ・ブル広場と正式名があり、ホテルのレストランはこのバイオリニストの名で呼ばれ、ブルの写真をインテリアに使っています。

さて、このグリーグ家の別荘、といっても今では市内住宅地になっていますが、そこへ馬を駆って颯爽とあらわれたのがオーレ・ブル。グリーグが15歳のときでした。当時、日本なら大名カゴや人足が担ぐホイカゴですが、当地では2頭立ての4輪馬車や荷馬車だったわけです。ですから駿馬に乗って早駆けすることはは、現在ならさしずめスポーツカーで飛ばすカッコよさがある。

●スコットランド難民だった祖父
グリーグは祖父の代にスコットランドから政争を逃れてベルゲンに避難してきた。貿易で成功し、その息子、すなわちエドワルドの父はイギリスの公使に任命されたちょっとハイソな家庭でした。そういう名家の交わりとして、オーレ・ブルが寸時ベルゲンに帰郷中、招待をうけてグリーグの別荘に遊びにきたのです。人の話題に聞いていた大スターのブルがほんとに現われたのでグリーグ少年はもう平常心ではいられなかった。予想より大きな体格とハンサムな風貌に圧倒された。はじめて握手した時は『感電したようにシビレた』と最初の出会いを記しています。

●書いた私信手紙が2万通
グリーグは几帳面に何でも細かい時で書き留めておくクセがあり、64歳という長くもない生涯に2万通の手紙を書いています。またブルが肝心のバイオリンを持参せず、ナマで聞けなかった事に落胆し、ブルがアメリカ演奏旅行のエピソードを絶え間なく語るのに辟易している書面もある。

さて、グリーグ家では母とお姉さんがピアノを、兄のヨンはチェロを弾く。客人へのおもてなしに演奏した後、エドヴァルドは『自作の曲を披露しては』、と母に言われて仕方なく自作を弾いたところ、オーレ・ブルが急にマジメな態度になり、父親を片隅に呼んでなにやら短い会話のあと、緊張しているエドワルドの肩をゆすり『キミはライプチッヒに行って芸術家(音楽家)になるのだ』とほとんど命令にちかい口調で言い放ちました。グリーグによれば『両親は反対したり考えてみるなんて抵抗する間もなくオーレ・ブルのアドバイスに従うべく決心した』そうで、このとき作曲家グリーグの運命が決まったといえる。

●ライプチッヒ音楽院のグリーグ
ライプチッヒとはドイツのこの町にメンデルスゾーンが創設したライプチッヒ音楽院のことで、バッハの伝統と対位法に基礎をおく。クララ・シューマンが教えるフランクフルト音楽院や、ブラームスの友人や弟子、ブルックナーが教授をしていたウイーン音楽院があったが、作曲技法はライプチッヒが最も理論的で、基礎をしっかり学ぶためにはライプチッヒが最適とオーレ・ブルは判断し、その判断は正しかった。

そうして16歳の少年になったエドワルドは途中まで従僕と馬車の旅をして単身、ライプチッヒに留学した。グリーグという人は非常に小柄な人で、大人になっても身長151cmと驚くほど小さい上に、童顔の少年でしたから、20歳を超えた学生も少なくなかったクラスの仲間からは子供扱いされたようです。いまでいうならイジメに遭っていたようだ。で、ライプチッヒ留学時代を振り返ってグリーグは余り良い想い出を持っていない。後の手紙や書き物にウラミがましいことを書き付けています。

●ライプチッヒ音楽院の滝廉太郎
学生グリーグは忸怩たる1年の後、結核を病み、寮で寝たっきりになってしまった。当時の芸術家はもう殆どが結核か梅毒に冒されて死んだ。だもんでグリーグが結核に病んだことは特例ではない。グリーグが学んで30年くらい後、明治31年、このライプチッヒ音楽院に文部省派遣留学生となった滝廉太郎が寮にはいってきた。ところがこの寮で瞬く間に結核にかかり、2年の予定を1年に切り上げて船で帰国する。帰国してそのまま故郷大分で1〜2年の療養生活のあと23歳でこの世を去った。明治の給付留学といえば故郷の誉れです。滅多のことではおめおめ帰れない大和魂が災いした。

グリーグと滝廉太郎のダイレクトな接点はなかったが、グリーグは片肺を潰しながらもシブトク生き残り、滝廉太郎は一ヶ月以上を要した帰途の船旅が病状を悪化させ、早死にしたのでした。グリーグの場合は母親がかけつけ、枕辺で看病した結果、回復したので、母が駆けつけなかったら、おそらくそのまま一生を終えていたかもしれない。後年、母親の死をきっかけにグリーグは生涯最大の夫婦危機と芸術的スランプを迎えるのですが、それは次の機会に。

(了)



Pnorama Box制作委員会

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