安達正興のハード@コラム
Masaoki Adachi/安達正興


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ローマ法王の空虚なアウシュヴィッツ訪問
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〈 2006年 5月 30日 火曜日 〉


●虫酸が走る大仰さ
27日はローマ法王ベネディクト十六世のアウシュヴィッツ訪問を報道TVの二大大手、BBCとCNNがライブで延々と放映した。世界のカトリックシンパおよび世俗一般には、そうするネウチのあるイベントだからに違いないといえ、めっぽうハラがたつ。親バチカンの解説者がまた気に障る。カトリック教徒からいくら罵倒されようと、言わずにおられません。

わたし、自分ではアマノジャクとは思わない。同じようにバチカンのショーヴィニズムに辟易した人はかなりいるのではないか。ブッシュやプーチンの海外訪問コンボイでもあれほどリムジンを並べやしません。法王の車を両側6人のSPが歩いて警護するいかめしさ。ま、前代ヨハネ・パウロ法王は拳銃で撃たれたからといえオーバーだ。法王がサインするとき、また声明を読み上げるときには横からスッと老眼鏡が手渡され、外すとサッと横から手が伸びて眼鏡を預かる。笑っちゃうね。

ポーランドのカトリック界トップが総出のうえ、アウシュヴィッツの生き残りや関連者を配列して進行するのはいいとして、TVの位置なんてあまりにもよく出来すぎている。「聖」を現代的に演出する傾向はバチカンと、日本の坊主が最先端だ。袈裟の華麗さはどうだ、芸能人じゃあるまいし。

●バチカンとナチとドイツ
そもそも、ベネディクト十六世は、故法王に随行してアウシュヴィッツに来たことがあり、ドイツ司教グループの一員としても来ている。既に2度、強制収容所のガスチェンバーを見ているのである。「ドイツ人」として、つまりドイツ人法王として訪問すると、なぜ言葉が出ないほど「感極まった」硬直した表情に変わるのでしょう。なぜスピーチをドイツ語でなく、イタリア語でやったのか。

ドイツ人として訪問したことがたいへんシンボリッックで意義があるという。いったいどういう意義があるのか、スピーチは空中を彷徨うがごとく掴みようがなかった。神の沈黙を問い、主よ何処に居ますや、と問いかける。これって、十字架のキリストが発した『エリ、エリ、レマ、サバタクニ』、窮した時の祈りの定番である。

●薄いドイツ人連帯としての贖罪
しかるに意義ある訪問なら、かような個人の内省的祈りを呟いていちゃダメなんです。ナチスの犯罪ではなくドイツ人の連帯として、ドイツの贖罪について法王はどう考えるのか、ナチとユダヤ人虐殺に対するバチカンの見解について語るべきなのです。この法王は学生の頃、皆がそうであったようにヒットラー青年部に入り、ナチ・ドイツ軍に編入された。そこで脱走するのですが、ドイツ司教の頃から同僚がそうであるように、ナチを切り離したドイツの贖罪について明瞭ではない。

ヒットラーの台頭時には、時の法王ピオ十二世がヒットラーの反共を支持しドイツカトリック教会は安全な立場に逃げ込んだ。バチカンがナチ許容、無力だったことを謝罪したのは、実際にドイツ占領下で青年時代を過ごした先代ヨハン・パウロ二世がはじめてである。この先代の側近中の側近として、身の回りから法王の日程、旅行の段取りすべてを切り回してきた現法王は、さすが今回の訪問計画を完璧にお膳立てしたが、何のためにアウシュヴィッツへ行ったのか答えはいただけなかった。(了)

筆者注:上記の見方を宗教家に訪ねてもムダですよ。雰囲気平和論を聞かされるか、答えは自分でさがしなさい、なんて言われるに決まってます。



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