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奈良水門町の辺り
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〈 Mon, 14 Nov 2005 〉
●吉城園(旧由良邸) 奈良東大寺から西へ東大寺関連施設や建物があり、そこから市街地が始まる境に水門町がある。水門町には3本の川が流れているが、春日奥山から発する吉城川に因んだ名前である。といっても別に水門があった様子もなく、現在では奈良公園を流れる部分は人工的に整備されている。水門町から暗渠に消え、どぶ川同然に他の2本と合流し再び暗渠に入り、最後は佐保川に注ぐ。自然のままの吉城川を見られるのは人が立ち入れない『吉城園』と『依水園』の間を流れる部分だけだろう。朽ちた落ち葉が残り積もった小川は美しくはないが、記憶にある風景に違わない。 吉城園というのは由良邸を県が買い取り、庭園を平成元年一般にオープンした。小学低学年の頃、母につれられて由良さん宅に何度か遊びにいったことがある。母屋は米軍に接収されていたので、由良さんたちは離れに住んでおられた。英文字の大きな標識のある表門から離れて川横に木戸があり、そこから潜るように入る斜面を上ると、左手の上に東屋がある。右に本館に接する池があり、この池の大きな緋鯉や金の鯉を楽しみにまずに見にいったものでした。 兄に「今いけばがっかりするよ」と言われていたので、前回は寄らなかったが、今回、アキ時間があったので水門町あたりをぶらついてみた。このあたりは地図にあるように、裁判所長官舎、県警本部長官舎、知事公舎(昔は官舎)などの屋敷があり、その倍以上ある吉城園がある。思い切って裏門を改造した入り口に入り、一目、小さい頃遠くに見えた東屋があんな近くにがあったのかとおどろく。見学路が整備されたので、石段なども昔のようではない。 入場料を払い『由良さんはいまどうしておられますか』と問えば、おねえさんは『由良さん』?聞いたことがないという返事。『本宅が広すぎるうえ、GHQに接収されたあと感じもかわったからずっと離れの茶室におられたのですが・・』。入園受付のおねえさんは興味ぶかそうに聞いてくれたが初耳という。 貰った案内書には<明治になって民間の所有となり、大正8年に現在の建物と庭園が造られた後、奈良県の所有となり……>。 なるほど、どこにも由良氏の名前が出てこない。釈然としない。隣の依水園は江戸時代以前からの豪商たちの屋敷を統合し整備した由来が知られている。それにひきかえ吉城園については係員さえ知らない。 由良さんが貨車で何台も鉄を買う大きな商いをする人だというくらいは子供心に聞いていた。その後、事業に失敗したこともウスス感じてはいたが、吉城園沿革史から抹殺することはなかろう。由良氏はおそらく戦争で廃れた主から奈良一の豪邸を買い取ったのだろう。この庭を造った大正の主はどんな人物だったのか、次回帰省するときの宿題にしようとおもう。
左は東屋、右は本宅の一角と前にちらっと鯉の池
茶室入り口と右は茶室裏庭を望む。あの頃は全部芝生で走り回ったが、灯籠を配し観賞道をつけた苔庭に変貌していた。茶室といえ、茅葺き屋根は3階建ての高さがあり、当時の我が家より断然大きかった。現在利用されている茶会の様子は次のサイトにあります。私的には歳が近かった由良家姉妹を知る者として一抹の寂しさあり。 http://www.kottou.net/shop/tomonokai.3.htm 吉城園は依水園のような広がりや美術品もないが、そのかわり木々や苔の素朴なよさがあり、特に夏はどこよりも涼しそうにみえる。園料は250円と格安です。利用率も少なそうでおそらく県は大赤字でしょう。奈良に行かれた節は吉城園をおわすれなく。
左、依水園のとなりの三宅さん宅。小さいときに熱が出た,腹が痛いといってはここに連れてこられた。『三宅醫院』の表札はもうなかったが、嬉しいことに大木は健在。 右はその向かいにある写真家・故入江泰吉の家、昔から鄙びた風情でしたが表札がなく、長くアキ家のようでした。 (了)
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