-------- ----------------------------------
ヨハネ・パウロ2世
------------------------------------------
〈 Sat, 02 Apr 2005 〉
●法王が死ぬとき
4月1日はエイプリルフールの日。バチカンはそれどころじゃない、ソンバームードです。夕方まで3度の公式発表があったが、最後の容体発表で法王が死の床にあるのはハッキリしている。その後途絶えちゃって、人工呼吸器が使われている。バチカン記者によると法王死去にさいしては発表のしきたりこまごまあるらしく、公式発表はおくれるという。トップ司教たちの話し合いが建物のどこかで行われていることだろう。 その間、ペテロ広場に7万ともいわれる人が夜になるほどギッシリあつまって、パウロ2世がイースターに姿を見せた居室の窓、夜になってもこの窓二つに明かりがあり、そこをを見上げている。TVは定点観測のように映し出す。法王が現れるハズもないのに……。全世界のカトリック教会では静かな祈りがささげられている。が、バチカンの中は忙しく,カーディナルたちが頭をめぐらしている。 ヨハネ・パウロ2世の素晴らしさが語られ、美しいエピソードが語られることでしょう。わたしはこの法王についてもバチカンについても、コラムではアクタイをついてばかりでした。きょうは矛をおさめて、ポープ(法王)を自分なりに振り返ってみることにする。 ●ヨハネ・パウロ二世が生きた時代 26年前、ポーランドの首都クラコウの大司教からローマ法王に選ばれたとき、ワレサにつづいてポーランドから国際舞台にあらわれたインテリに同じ職場にいた当時研究員のポーランド人が非常に喜んでいました。レイク・ワレサは労働者丸出しの言葉遣いで恥ずかしい。ポープは素晴らしい人、博士号をふたつ持ってるそうです。ポープの本名がこの友人によく似ているので覚えているのですが、ヴオイチワという。 ヨハネ・パウロ一世は法王に就任したとたん何もしないうちに心臓発作で急逝した。そのあとヴォイチラ司教が後継に選ばれ、ヨハネ・パウロ二世として法王の座についた。それから26年・・というと今30歳の人なら、前の法王を知らないわけだ。わたしもエラそうにいえないが、ピオ12世という難しい顔のポープが小学校から高校まで君臨していた。この人はナチのユダヤ人虐殺に沈黙した人として記憶される。 パウロ2世はちょうど世界ツーリズムが始まる頃に法王になり、開発途上国にもTVが普及した頃と重なっている。国際化の潮流にのって史上初のポピュラーな人物になりました。時代の趨勢とパウロ二世のカリスマ的資質が、財政的にも知名度でもバチカンの発展に寄与した。これまで102回の国外旅行それはそれはを精力的に実行した。誰にでも会う。右も左も上も下も将軍もマフィアまがいにも会ってきた。こんな法王はじめてだ。 ●カストロとポープ 絶頂期のアラファト、イスラエル首相、ベツレヘムのユダヤ寺院、シリアだったかモスクを訪問したときはイスラム習慣にしたがって裸足になってましたな。ダイアナさんもモスクにはいったとき靴をぬいで、意外に大きな足をみせくれましたっけ。キューバに行ったときはあのカストロが黒のビジネス・スーツ姿でヒゲも少し刈り込み、小学生のように直立不動でパウロ二世を迎えた。いつも野戦服の共産党ゲリラ大統領にもカトリックの一信者としてのカオがあった。あんなかわいらしいカストロはなかったな。 しかしです、世界の指導者と一過性の面会いくつ重ねても、それになんの意味があるのか(おっと、これよりは狂わまじ)。感嘆するおもいでをひとつ。かって法王暗殺のプロットあった。命を取り留めたが撃たれたあと『犯人のために祈れ,我すでに許したり』と説教。『右の頬打たれなば、左の頬も出せ』と呼応する信仰を堂々と語って悪びれない希有な人格者でした。 さてペテロ広場では毛布にくるんだ徹夜組が詰めている。朝からローマを目指してピルグリムが大勢あつまるだろう。(了) 翌日後記:2日午後9時37分、ヨハネ・パウロ2世死去。夜になってもペテロ広場にあつまった追悼ピルグリムの人々は帰ろうとしない。各国からぞくぞく参集者がつめかけ、水曜日の葬儀までこの状況がつづくだろう。国際ニュース局は各社トップキャスターを2〜3人送り込んで最大級の特番をぶっとうしに放映している。世界各地では追悼ミサが催され、一人の死に参集する人口は歴史はじまっていらいにちがいない。ダイアナ妃以上、ジョン・ケネディの比ではない。 |