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キルギスタンの暴徒革命(2)
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〈 Sat, 26 Mar 2005 〉
● バキエフ元首相、かよわい全権を掌握
政府庁舎が占拠され、1時間後に野党が暫定政府を急こしらえしたあと、招集された野党議員調整委員会で新議長カドイルベコフ大統領代行が下ろされ、バキエフが大統領代行兼暫定首相に選ばれた。全権を手中にしたバキエフは、いちおう国民の人気が南部と北部にまんべんなくある。けれども国内を統一できるようなシンボル、カリスマ性はない。ごくふつうのゴマシオおじさんにみえる。 さっそく閣僚名簿を発表、3ヶ月以内に大統領選と議会選挙のやり直しを明言した。とここまではよいが、暴走したデモを「アカーエフ政府の挑発が原因」、「庁舎突入は予測外、許されない」と非難するのはキレイゴとにすぎやせんか。ここまで民衆を煽ったのはバキエフその人なんだから。 一夜あければビシケクの商店はことごとく暴徒に略奪されていた。議会の厳戒令要請をバキエフが握りつぶしたため、25日も残った前日免れた商店や銀行が襲撃された。しかし治安警察が増強され発砲許可がでたので次第に騒ぎはおさまるなるだろう。自警団も組織された。尤も、襲撃するめぼしい商店も残り少ないが。 ●アカーエフの声明 『親愛なる同士、国民、兄弟姉妹、人民に選ばれた正統な大統領として・・』で始まるかなり長いエモ−ショナルな声明をキルギス・カバル放送が伝えた。いわく、これは無政府・略奪の反憲法クーデターである。無責任で欲深い政治屋どもと謀略策士のギャングが暴力で政権奪取した犯罪行為だ。まちがった革命スローガンのもとに過激派による略奪が国を覆った。などなど、いちいち納得。14年の長期大統領期間に挙げた成果を語るくだりは、おっしゃるとおり実績ありました。だけど最後まで、民衆の不満のもとである経済や汚職やネポチズム、もちろん反政府活動家の抑圧に触れていません。民衆との認識のズレはどうしようもない。 流血を避けねばならない、同じ国民に発砲できなかったなど、武力で鎮圧をしなかった理由は学者出身・平和主義者アカーエフのよいところ。しかし国外に難を避けたのは一時的で時いたれば・・それは無理でしょう。事態は不可逆的だ。この期におよんで国民に選ばれた正統な大統領を主張するのはサッダム・フセインだけでけっこう。 アカーエフはカザフスタンを出たウワサがあり、行方知れず。プーチンが亡命受け入れを表明したので。ロシア入りすれば居場所を隠すこともないが、中央アジア民主化の口火をきった希望の星アスカー・アカ−エフの政治生命はそのときおわる。プーチンはアカーエフを再度ごり押しできない、すでにバキエフと協力する意向を示している。 ● 暴徒を仕組んだのは米・・中国の見解 庁舎占拠に対するロシアと米の見方は自発的暴徒によるものとして一致しているのにひきかえ、中国各紙の見解は『アメリカが仕組んだ陰謀』とパターンがきまっている。隣国にことあればなんでも米の謀略だ。フム、そうやって数億の中国人に偏見がしみ込んでゆく。 ●6月の大統領選挙を争うふたり クルマンベク・バキエフ大統領代行兼暫定政府首相 56歳、南部出身[キルギス国民運動/Peoples movement of Kyrgyztan]の党首。 ビシケク抗議デモを主導。2002年まで首相。この年に南部アクシで起こった反政府デモと治安警察の衝突でデモ隊の5人が死亡、責任をとるかたちで辞任、野党へ。事件関与疑惑が国民を統一するうえで汚点とされる。経済畑出身。 フェリックス・クーロフ治安相 56歳、アカーエフを補佐して、副大統領、治安相、ビシケク市長などを歴任。金塊疑惑で追放され独自の野党を結成。2000年の選挙に落ちて(与党の妨害?)汚職容疑で投獄されたが、今回の政変で釈放され治安相に就任。 次はどこ?カザフ、ウズベク、タジク、トルクム……中央アジアのCIS4カ国は2年のうちにロシアから離れる。東ではベラルーシに兆候が出た。さらに進めば本家ロシアの政体変革だってありうるぞ。てなことを次のコラムに書いてみよう(了) |