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亡命しなかったマスハドフ
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〈 Wed, 09 Mar 2005 〉
●8日、反乱穏健派マスハドフを殺害
マスハドフは亡命しなかった。同僚たちの多くがイギリスや中東に亡命したが、アスラン・マスハドフはチェチェンに留まった。プーチンはマスハドフ元大統領をモスクワ劇場人質、ベスラン人質テロ事件の黒幕と決めつけ、賞金付きのお尋ね者に指定。それが2002年だから、かなり長く発見されずにいたわけだ。そんなことから、ひょっとしてマスハドフはチェチェン紛争の解決にセーブされたかのではないか、との見方もあったが 楽観的にすぎた。 マスハドフはしかし、チェチェンを代表していつか和平交渉に臨む機会を待っていたのではないか、それで国内に留まっていたのでは・・・わたしはそんな感じがする。分離独立運動のシンボルは逃げることができなかったと。 ベスランの学校占拠ほか数々のチェチェンテロ事件の本当の計画者、シャミル・バサイエフ反乱軍司令官はコーカサスの山中に隠れて、こちらはビンラーデンのようにシッポを掴ませない。マシャドフは首都グロスニーに近い静かな村にいるところを通報され、ロシア特殊部隊に殺害された。家の地下にある避難壕はサッダムの穴より大きいが、痛ましくもみすぼらしい。見るに耐えんですわ。上着を吹き飛ばされて血の海に転がされた死体をロシア国営TVが流した。悪趣味だな〜。 ●分離独立への歯車を狂わせた過激派 簡単にチェチェン紛争を整理しておこう。マスハドフ(53歳)レニングラード砲兵学校卒、ソヴィエト赤軍の大佐としてアフガン侵攻に従軍、つまり反イスラムに関わった過去がある。イスラミック・チェチェニアの分離独立の指導者として、汚点ではあるが、91年ソ連の崩壊後マスハドフ大佐はチェチェン共和国に帰り、ドゥダイエフ大統領の側近に加えられた。ロシアチェチェニア第一次戦争(19941996)に軍参謀総長として活躍、ロシア軍を追い返し事実上の自治を獲得。 翌年、国際監視員が認めた民主的選挙で大統領に当選、エリツィンもこれを認めてクレムリンで手打ち式がありました。このころがバルト3国につづく、チェチェン独立に未来輝く頃でした。グルジヤやウクライナにさきがけて自治独立が視野に入った頃だった。 ところがこの成功に気を良くしたイスラム過激派のバカどもがチェチェンの明るい未来をぶっ壊したのである。中東から入った外国人過激派といっしょになってテロるったのが、マスハドフの国防大臣バサイエフである。マスハドフは残念だが過激派を押さえきれなかった。 1999年冬のグロズニが悲惨をきわめた第二ロシア・チェチェニア戦争が始まる。エリツィンに代わってアフガンを終わらせたプーチンが無差別絨毯爆撃を加えたあさましい戦争である。この空爆のあさましさについて以前コラム「チェチェン哀れ」に書いた。http://osaka.cool.ne.jp/hard_column/hard_column/no_nippon406.html プーチンはこのときからマスハドフ元大統領はバサイエフ司令官と同類テロリストだとして仇敵の関係にある。ベスラン学校占拠人質事件があってからは宿敵殺害を義務と心得ている。プーチンはチェチェン弾圧をゆるめない。おなじようにチェチェン独立武装派は過激テロをゆるめないだろう。(了) |