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ベイルートを建て替えたラフィク・ハリリ
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〈 Thu, 17 Feb 2005 〉
ハリリ前首相が暗殺され3日の喪があけました。昨日は掲示板に舌足らずの感想をしております。これはそのつづきを徒然なるままに。
凄まじい爆発だった。クレーターの大きさが尋常ではない。ハリリの黒塗りベンツの車列は大型車4台に、バイクがついている。警備の車から妨害電波を出し、リモコン式の路肩ボンブに備えていた。だからテロリストは自爆カーを使ったのである。ハリリの他に死者16人、けが人146人、サンセット・ブレヴァードのようなしゃれた街路が戦場のありさまになるメガボンブだった。。 テロの前日にテロ計画を察知した米CIAkが注意の情報を出した、きょうそんなニュースが一度あったがそれっきり。爆発の5分前に在ベイルート ノルウェー大使とお茶を飲んでいたが、大使の印象ではいつものにこやかなハリリに差し迫った危険を前にした様子はまったく感じられなかったという。 ●シリアとイランが手を結び なぜころされたか、犯人グループは何者かについては、じゅうぶん報道されているもののハッキリしたことはもちろん闇の中である。葬儀は家次男が国葬を断った(長男は数年前に交通事故で死亡、不審な点がある)ため、政府側は全員欠席、野党と国会議長が弔問客を受けるイビツなかたちになりました。また、シリア外相はテヘランでイラン副大統領と会談し、互いに米から苛まれる孤独を慰め、憎まれもの同士が同盟フロントを約束しあいましたな。 このあたりはまたの機会にして、きょうはつれづれでまいります。 ハリリ氏ははわたしより若い。オレが小学校4年のときハリリは一年坊主だ。無関係ではあるがそういうこと気にする不甲斐ないオジンになったのかな。21才のハリリ貧しい故郷シドンを出て、サウジで学校教師、会計士なで口をすすいで20年、1970年に建設会社をはじめる。オレもそのころ71年春に30過ぎて当地に来て・・ウッ、いまだに日銭稼ぎにオロオロしているのですか、あなたは。はい。 ●幸運をダシュでゲット ハリリのチャンスとは1977年、故キング・カーリッドの宮殿をアラブサミットの日に間に合うよう6ヶ月で造れ!という下請け注文をイチカパチか引き受けて完成させたこと。これでサウジ王室に喜ばれ、ファハド国王には六つも王宮を建てている。サウジ王政御用達になりました。のち、ついでにパレスのような私宅をベイルートにお気軽に建て、パリ、ワシントンに豪邸がある。もちろん自家用ジェットでお出かけになる。 下請けさせた親会社はフランスのオゲールという会社。のちこの親会社を買収してパリに Oregor International 社を設立。シラクさんと懇意になって・・人脈は世界中に広がった。 フォーブス誌の世界富豪リストの常連だが、アラブから王族以外でリストにのぼるのはそれほど多くないだろう。アラファトは掠めた支援金の隠し財産でやはりフォーブスに載ったことがある。そういえばアラファトも一旗あげるべくエジプトへ勉強にいった。ま、大学出る前にテロリストになったけれど。 サウジの土建業といえば、ウサマ・ビンラデンの父親がこれで成功して、跡継ぎのウサマがその金をアルカイダに注ぎ込んだ。いろいろだな。まだある。イラクの暫定首相アラウイは亡命ロンドンでビジネスに成功、チャラビは金融業で大資産を築いた。アラブではないが、ミロソヴィッチはニューヨークでビジネスに小成功、ボスニア・ヘルツェゴビナへ帰って恐怖の大統領になった。 さて、ハリリですが、貧農の子だったゆえか寄付に熱心。私財を出して破壊されたベイルートの清掃や、内戦終結(これは話せば長くなるので省略)に関する『タイフ合意』1989が実行成就するよう、財政を個人で請け合った。そうやっておいて、1992年にサウジから請われて首相として凱旋したわけ。寄付は布石だったかも、いやそのあとも社会的救済の基金をつくっている。(続く) |