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乱世を走り抜けたシアヌーク殿下
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〈 Fri, 15 Oct 2004 〉
●屈辱の多面外交
カンボジアのシアヌーク国王が81才で退位、実の子のシアモニ殿下が近々王位に就く予定。シアヌークがニクソンに楯突き、国際舞台に華々しいl頃。60年代の日本はベトナム反戦運動がにぎやかだった。したがってインドシナの平和とマイカントリー【カンプチア】の生き残りに奔走するシアヌーク殿下は全学連に人気がありました。 殿下は英語ができるが、宗主国フランスの教育をうけたのでフランス語での会見ニュースが多い。当時の小生はノンポリですから、大きなゼスチャーでカンプチア、カンプチアと叫んでいたのがおかしかった。だが話し振りが独特で媚びるような笑顔がいただけない。カメのように両手をあがき首をヒッ込めスッ込め、とめどなく喋るあのへつらいは置かれた境遇から自然に身に付いた部分がある。 米ソ冷戦、ダレスの共産主義ドミノ理論、ニクソンドクトリンにに翻弄されながらも、それを逆手にとって祖国の独立を守ろうとした意気はりっぱ。しかしやったことはスカタンにつぐスカタンにおわった。政界を去ってからカンボジアは次第に復興、非民主的フンセン政権ではあるが国際社会に復帰しつつある。シアヌークさんは長生きして魂の平安を得ただろうか? 自我の強い人だけにまだまだ枯れていない『フンセンごときが……』でしょう。 ●破国にいたるポル・ポト容認の誤算 殿下の生い立ちを読んでみますと、大東亜共栄圏を唱えて日本軍が東南アジアに進軍、宗主国の英仏を追い出し植民地解放を達成した。……そんな正義はウソだが宗主国を一時追っ払ったことは事実。カンボジアは独立を宣言したが、日本が敗戦するとフランスが戻ってきて独立は無効、カンボジア総督は国王を選んだ。選ばれたのがライバル王家両方の血を引ノロドム・シアヌーク、このとき18才の若者である。 フランスは御しやすい若者を選んだつもりが、とんでもない政治好きの積極人間でした。独立運動に加担してついにフランスの植民地から独立したのが1953年。こうなるとシンボル的国王では満足できず、王位を父親に譲って55年に首相に就任。だから以後15年間、シアヌークの綱渡り外交華々しかった頃は殿下と呼ばれていたわけだ。コンポンソム港にソ連、東欧、中国の貨物船が横付けし、ベトミン、ベトコンに軍事物資を運ぶのを許可していた。CIAに殺されなかったのは国際的有名人でありすぎたから。なんにせよ有名人はトクだ。 部下のロン・ノル将軍がプリンス・マタクと組んでシアヌーク政権を転覆したのが1970年。ベトコンと戦うためCIAが工作したことになっている。シアヌーク一冊目の著書『CIAとの我が闘争』(はニクソンのカンボジア侵攻とインドシナ紛争をめぐるCIAの古典的活動を知るうえで貴重な一冊。(原題 メMy War with the CIAモ) シアヌークはしかし、インドシナではいづれ共産党が勝利すると考えており、クメールー・ル−ジュ、ポル・ポトと手を握った。ロン・ノル将軍の裏切りに報復する目的もあっただろうが、ポル・ポトの残酷さを見抜いていなかった。亡国へ導いたヘマ、だからスカタンなのである。そして75年プノンペン陥落、キューサンファンが首相の座に。 殿下は映画をつくったり、本人を讃える歌作りが好きだったり、アメリカ嫌いなど金正日と似た一面がある。ともあれシアヌークは国王として平穏な晩年を中国で過ごせた。正日に晩年があるだろうか。(了) |