安達正興のハード@コラム

Masaoki Adachi/安達正興


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朝比奈隆さんとボクの青春時代

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〈 Mon, 04 Mar 2002 〉

先年も押し詰まった暮12月29日、朝比奈隆さんが亡くなられました。93歳。そして新年、小澤征爾氏がウイーンでプロムナード演奏会を振って、人気を博しました。先月にはドイツの指揮者ギュンター・ヴァ ント氏がスイスで死去されました。90歳だった。
朝比奈隆さんが逝かれてからこの3か月というもの、よく音楽会に行ったあのころ、高校2(昭和32年)から学生時代にかけて、我が青春の彷徨が次々に甦り、想い出に耽溺しがちでした。LPレコードが普及して、ステレオプレーヤーが普及するのはもう少しあとですが、電気と模型工作が上手な兄が大きなステレオ装置をつくった。日本橋で真空管、ツマミ、コンデンサー、バリコンなど部品をあさってきて設計から制作、ハンダ付けからトノコ塗りまで完全お手製である。どうやってお小遣いを捻出したのか、弟の私はクラシックLPを少々買い集めた。1957年にLP1枚1800円から2000円、決してお安くない。指揮ならカラヤン、フリッツ・ライナー、ストコフスキー、ムラヴィンスキー、バイオリンのハイフェッツ、メニューヒン、エルマン、ピアノのルービンシュタイン、ホロヴィッツ、チェロのカザルス、LPジャケットをふしぎなほど鮮明に覚えている。
奈良高2年生のとき、となりのクラスに俵畑嘉一がいた。彼はポップ、ジャズ、クラシック、演歌以外はヤタラ詳しい男である。さそわれて一緒に関西交響楽団を道頓堀の松竹座へ聞きにいったのが、オーケストラにナマで接した初体験である。チャイコフスキーの「悲愴」だった。大阪フィルハーモニーは当時、関西交響楽団と称し、俵畑とボクは「関響友の会」にはいって月例演奏会ほか、よく大阪まで聞きに行きました。大阪に行くのもすきだったし、演奏会の雰囲気もすきだった。朝比奈さんの指揮で、辻ひさ子、巌本マリ、園田高弘、江藤俊哉、すべて神々しいばかりの演奏に聞きほれたものです。もっとも俵畑はポケット総譜なんぞもっていて、いつもウルサイ批評を帰りの電車のなかズーッと喋り続けておりました。理屈と正義の生涯共産党員だけのことはある。「あのころより尊敬してる、俵畑さん」。
関響は自前のホールがないので会場は一定しなかったが、よく堂島フェスティバルホール向かいの朝日ホールを借りていました。あるときホールのある朝日ビル前を歩いていて、前に突っ立っている人をひょいと見ると朝比奈隆さんではないか。背筋を真っ直ぐ伸ばし、端正な横顔は指揮台のすがたそのままのよう。身じろぎもせず片手に鞄をさげ、片手にコートをかけ、ジッと瞳をこらして道路のかなたを視ておられる。グレーがかってきた髪に春風が櫛をさしていた。亡くなられてからよくこのときの絵のような横顔をおもいだします。
練習を終えて芦屋の家ににタクシーで帰るところだろうか、鞄には楽譜がいっぱい詰まっているに違いない。車を待つ姿にまで威厳があった。余談ですがあのころ、ウエの人は電車や市電、地下鉄に乗らなかった。どこへ行くにも車で、渋滞がなかったからだろうか。朝比奈さんは戦後しばらく電鉄会社に就職、駅で切符切りをしておられた。戦争の皮肉でしょうか、ここにもあった戦争の犠牲。
氏のエピソードについて駅員の件以外なにもしらない。岩城宏之氏のように多芸ではないし、小澤征爾氏のようにたくさん本を書かれていない。かといって寡黙な人ではありません。どうしてでしょう。天職以外のことで公に出ることを「いさぎよし」とされなかったのでは、と疑っています。明治の人だ。骨の太さが違う。燕尾服が似合う人だった。
ボクに音楽の扉を開いてくださった朝比奈隆さん、あなたは知らなくても、青春に朝比奈隆がいたボクのような人間はすくなくないとおもいますよ。長生きされてほんとうによかった。31年いじょうご無沙汰しておりましたが、ブルックナーのCDがあるそうですね。いいものを残してくださいました。ありがとうございます。

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Pnorama Box制作委員会

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